会員の皆様に運営委員長よりご連絡差し上げた通り、今朝の天気状況に鑑み、急遽、運営委員会・総会・研究発表会いずれもオンラインのみにて開催いたします。
Covid-19変異株が猖獗を極めておりますが、早稲田大学の方針に変更がないことから、現時点では、第30回研究発表会を予定通り9月24日(土)にオンライン(Zoom)で開催します。発表申し込みを運営委員会で厳正に審査した結果、3名の方に発表をお願いすることになりました。同時に、会則の修正が必要な案件が出てきましたので、臨時総会を開催いたします。ご出席のほどよろしくお願い申し上げます。
プログラム
14:15- 総会
15:00- 研究発表会
15:00- 石崎知己:ローベルト・ムージル『愛の完成』における「閉じ込め」と「拡散」の契機
16:00- 竹峰すみれ:テクストのなかの白い空き地 バッハマン「三十歳」および初期詩篇におけるツェズーア
17:00- 金志成:クレメンス・ゼッツの短編小説におけるアスペクトの転換
18:00 閉会
なお、13:30より運営委員会をオンライン形式で開催いたします。運営委員のみなさまには改めてご案内いたします。
発表要旨
石崎知己(早稲田大学文学研究科修士課程)
ローベルト・ムージル『愛の完成』における「閉じ込め」と「拡散」の契機
ローベルト・ムージル『愛の完成』(1911)は全体の分量が四〇頁にも満たない短い作品でありながらも、当時の書評で「ドイツ語で書かれた最も難解な作品のうちの一つ」と評されたほどの複雑な文体で書かれている。この難解な文体をめぐっては、これまで主に認識批判の文脈に関係づけられるか、あるいは因果関係に基づいて登場人物の心理を描く伝統的な物語に対する批判として理解するという形で議論がなされてきた。だがそのような議論の一歩手前に留まり、書かれた文字としての言葉が持っているより表面的な次元に目を向けることで、この文体が持つ別の効果を分析することができるだろう。
そこで本発表では、この作品の語りの手法が最も顕著に現れているとみなしうる列車移動の場面に注目する。主人公が娘の通う寄宿学校へと向かうこの場面では、増殖する比喩や何度も織り込まれる主人公の回想が叙述の時間を途方もなく長引かせて物語の時間を圧迫してしまうために、列車に乗る主人公が動けなくなるという現象が見られる。文体のレベルで引き起こされるこの麻痺状態は、物語の中で主人公が繰り返し訴える「身動きができない」という嘆きのなかにも密かに反響することで作品の中心的主題を形作っていく。本発表はこの現象をある種の「閉じ込め」と理解し、それが作品に「扉」や「堅い壁」といったモチーフを招き寄せる一方で、それに対立する「拡散」の主題として表面から染み出す「水」や「音」がその周囲に配置されることを明らかにする。その際、主人公が車窓から眺める灌木の枝先から水滴が滴り落ちる描写を取り上げることで、具体的にそれらがどのような形で組織されているかを確認する。
こうしたモチーフの展開と並行して文体のレベルでは、複数のセンテンスを無理やりにつなげていきながらも、ついには文字が形を失うまでに分解した「…」という表記によって文章が断ち切られてしまうという事態が現れる。こうした特徴を踏まえ、これまでに確認した問題を再び文体へと折り返すことで、「閉じ込め」と「拡散」の葛藤の場としての文体という解釈を提示したい。
竹峰すみれ(早稲田大学文学研究科博士後期課程)
テクストのなかの白い空き地 バッハマン「三十歳」および初期詩篇におけるツェズーア
ヘルダーリンはオイディプス王論で、韻律論において詩行内の区切りをあらわすツェズーアを悲劇のリズムに反する中断と言い換え、筋運びの速さに抗うものだとした。これを応用すれば、バッハマンの短篇「三十歳」(1961)で主人公が事故に巻き込まれた場面における「完結には早い」との発言には、この発言が先を急ごうとする語りをいさめているという意味で、同様のツェズーアのはたらきが認められてもおかしくない。しかも、速度に抗うというこの原理は作品の個々の断章の構造を規定することさえある。そこでは改行によって語りそのものまでが中断され、テクスト上には詩行末のような空白が生じることになるのだ。詩や哲学的論考など、短編集出版に至るまでさまざまなジャンルにおいておこなっていた仕事をひとつの形式に溶け合わせたとして、短篇集『三十歳』をこの作者の仕事における区切り(ツェズーア)と呼んだ先行研究を踏まえるならば、詩はこのように、中断の形式として小説に取り込まれ、それ自体がツェズーアをなしているといえる。このような観点に立てば、とりわけ出版当時の時代の文脈に置かれて論じられることの多かった詩集『猶予された時』(1953)は、作品の構造を規定する時間という観点から見直されることができるだろう。本発表は、ヘルダーリンのツェズーア概念を用いて作中世界の時間の流れや語りのリズムなど複数の次元における小説の時間の諸相をとらえたのち、同じ時間構造を初期の詩篇がすでに準備していることを明らかにすることで、作者の創作史におけるツェズーアに位置する作品と初期の作品との接合点を、まさにツェズーアという契機によって探ろうとするものである。
金志成(東京都立大学)
クレメンス・ゼッツの短編小説におけるアスペクトの転換
現代オーストリア文学を代表する作家クレメンス・ゼッツの特異性は第一に、奇抜なコンセプトや大胆な仕掛けによって読者の期待の地平を絶えず揺さぶる点にあるが、そうした一種の前衛性の影で見過ごされがちなのが、優れた短編小説の書き手としての彼の一面である。本発表では第二短編集『丸いものたちの慰め』(2019)を中心的に取り上げ、そのストーリーテリングを技法的な観点から分析することにより、短編というフォーマットにおいてこそ純化されて現れるゼッツ文学の挑発性を浮き彫りにする。
ゼッツの短編作品の特徴としてしばしば指摘されるのは、詩的な「対象描写」の欠如である。そこには作家自身が公言している反マジックリアリズム的な態度ないし、ペーター・ハントケらに連なる戦後グラーツ文学の系譜が見てとれるが、本発表ではむしろ彼の旧作におけるコンセプチュアルな「語り直し(Nacherzählung)」の試みをも視野に入れつつ、そこに〈小説〉的なものの捨象による〈物語〉への還元を見てとる。
とりわけ、元来は映画のスクリーンプレイとして書かれた「魔術師」および通俗的な物語類型を範にとる「南ラツァレットフェルト」は、一見したところ明瞭なプロットに還元しうる単純な〈物語〉である。だが、本発表の分析によって明らかとなるのは、まさしく陰影も奥行きも欠いた単純な線こそが、テクストの読みそのものをも反転させるような騙し絵のごとき輪郭を描いているということである。
愛情と憎悪、日常と狂気、虚構と現実などを反転させるゼッツの語りについてはすでに、『インディゴ』(2012)を扱ったハーラルト・シュタウンの書評において「不気味の谷」の現象と比較されてきた。それに対し本発表は、むしろ後期ヴィトゲンシュタインが問題にした「アスペクトの転換」を引き合いに出す。これにより、ゼッツ文学における「描写」の問題について新たなテーゼが導き出されるだけでなく、長編小説と短編小説の差異をめぐるジャンル批判的な考察にも繋がる。