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研究発表会第一部
13:00-13:45
徳永菜摘野(早大文学研究科博士後期課程):サイエンス・フィクション(SF)における時空間の捉え方 ― 初期ドイツ語圏「時間SF」を例に
13:45-14:30
戸嶋匠(早大文学学術院助手):フィナッツァーホーフの夢 ― ホーフマンスタール『アンドレーアス』における「解釈のためらい」
14:30-14:45休憩
14:45-15:45臨時総会
研究発表会第二部
15:45-16:30 久保結菜(早大文学研究科修士課程):「過ぎ去ること」への抵抗 ― アイヒンガーの初期散文作品における「時間」
16:30-16:45休憩
16:45-17:30 小野寺賢一(大東文化大学):「テクスト主体」(Textsubjekt)の有効性の検証
17:30-18:30 懇談会
研究発表会に先立ち12:00より運営委員会を別リンクで開催しますので、運営委員のみなさまはご予定くださいますようお願いいたします。
徳永菜摘野:サイエンス・フィクション(SF)における時空間の捉え方 ― 初期ドイツ語圏「時間SF」を例に
SFが「物語論の実験室」(Wittenberg 2013)であるならば、長らくサブ・カルチャーとして文学研究の脇に追いやられていたこのジャンルも、物語論的な探究の対象となりうるというテーゼが成り立つ。SFの物語論はホーガンの物語の「プロトタイプの三つの構成要素」(Hogan 2010)を踏まえると出来事の連続、それが生じる時空間、そして主人公の人物描写の三つから構成される。SFにおいてこの三つの構成要素はある程度パターン化され、SF内部にサブジャンルを生じさせることがある。本発表ではこの三つの構成要素のうち、時空間に焦点を絞る。浅見は「特殊な時間世界を設定しながら、時間旅行のような独特の経験を描き出す物語」(浅見 2015)を「時間SF」と呼び、SFのサブジャンルと見なした。本発表ではオスカー・ホフマン『第四の次元―形而上学的空想小説(Die vierte Dimension: Metaphysischer Phantasieroman)』(1909)での時空間の捉え方(本作品の成立時にSFというジャンルそのものが未成熟であったことから、萌芽的なものも含む)を、浅見による「時間SF」の五パターン、すなわち1.タイム・トラヴェルの物語、2.タイム・スリップの物語、3.並行世界へ跳躍する物語、4.自己重複の物語、5.時間の果てをのぞむ物語に分類する。分類によって見えてくるこの「時間SF」の非線形的時間イメージは、物語一般の正統な価値、つまり線形的時間イメージや時間線上の因果関係を揺るがす。本発表では、この作品が内包する自由意志による未来の創造と決定論的な未来世界との矛盾が、近代以降の自由、自律、平等などというヒューマニズムの理想と現実との乖離をついた西洋文明批判である点を展望する。
戸嶋匠:フィナッツァーホーフの夢 ― ホーフマンスタール『アンドレーアス』における「解釈のためらい」
ホーフマンスタール『アンドレーアス』草稿(1912-13年)で、アンドレーアスはフィナッツァーの館に滞在中、二度夢をみる。主な分析の対象は、一つ目の夢、すなわち思慕するロマーナを追うが近づけない夢と、この夢が覚めたのち従僕の犯行が判明する場面である。作者に特有のテーマや精神医学の言説との関係を巡る研究が主流の本草稿とその関連断片だが、本発表では読解の可能性に焦点を当てる。その結論として、精神分析を含む自然的解釈と超自然的解釈とのあいだでの不確定性をもたらす構造こそが本草稿の特性であることを示す。さらにこの「解釈のためらい」をもって、本草稿がツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(1970年)の「幻想文学」の定義に当てはまるものとみなす。
この夢の特徴は、夢の外の知覚刺激が同時に夢の中に取り入れられていること、覚醒時の無意識的不安が夢の中に反映されていることである。この特徴から連想されるのは、フロイトが『夢解釈』で取り上げる「燃える亡き我が子」の夢である。後者の夢については、「願望充足」の一例とみなすフロイトの解釈と、「トラウマ=<現実界>との出会い」の回避が行われているとするスラヴォイ・ジジェクの解釈に分かれる。しかし本発表で述べる理由から、アンドレーアスの夢はいずれの精神分析的解釈にも完全には還元できない。
アンドレーアスがかつて殺した動物に夢の中で出会うことと従僕が犬を殺していることは、超自然的なシンクロニシティとして説明できそうだが、この超自然的説明と、精神分析とその他の心理的解釈による自然的説明は、同等の権利をもって相互の反証となる。
久保結菜:「過ぎ去ること」への抵抗 ― アイヒンガーの初期散文作品における「時間」
イルゼ・アイヒンガーの長編小説『より大きな希望』(1948)に、ユダヤ人を母にもつ著者自身のナチ支配下ウィーンでの体験が織り込まれていることは明らかであるが、語り手である「私」は体験した出来事が「歴史」の中に位置付けられることを阻もうとするかの如く、徹底的に西暦を秘匿している。そして、「今日を捕まえるのだ」と自分に対して、また同時に読者に対して呼びかけることにより、未来が現在になり、現在が過去へと変わっていくことを拒絶する。
さらにアイヒンガーは『鏡の物語』(1952)において「鏡」を媒介に時間の流れを逆転させ、『絞首台の下の演説』(1952)では「始まりと終わり」、すなわち時間の両端を重ね合わせさえしている。このように彼女の初期作品において時間は直線ではなく円環をなしていることが珍しくない。これは、一方向に過ぎ去る「出来事」と現在との間に隔たりを生じさせてしまうような「直線的な時間進行」に「時間の円環構造」を対置することで、過ぎ去った出来事を片のついたものの集積として捉える「歴史」に抗っているのだと考えられる。そして、「時間の円環構造」はいわば巡り戻って距離を突破し「一回性の出来事」を現前させることになる。
本発表では、初期散文作品の中でもとりわけ「通常の時間進行」の枠組みから外れるこれら3作品を取り上げ、その特異な「時」の表現を分析することで、アイヒンガーが、「出来事」を固定して現在=現前[Präsens/Präsenz]から引き剥がす「過去の忘却」に抵抗していることを明らかにし、その意義を考察する。
小野寺賢一:「テクスト主体」(Textsubjekt)の有効性の検証
ドイツの抒情詩研究の争点の一つに、ディーター・ブルドルフが提唱する「テクスト主体(Textsubjekt)」の概念がある。「テクスト主体」とは読者が詩に「首尾一貫した意味」を見出すために想定せざるをえない「分析的仮構物」であり、テクストの各要素を配置し、組織したと想定されうる主体を指す。この概念は物語理論における「含意された作者(impliziter Autor)」に相当するのだが、問題は、抒情詩理論においても物語理論においても同審級の必要性を疑問視する立場があるということだ。本発表ではまず、こうした立場ならびにそれに対してブルドルフが行った反論を検証し、ブルドルフがこの概念にこめた意味を再構成する。次に、「テクスト主体」が「どんな文学的虚構にも適用可能」であると批判し、自身が70年代に行った「抒情詩の〈私〉(lyrisches Ich)」の概念規定が今日でも通用すると主張するヴォルフガング・G・ミュラーの説を紹介する。そのうえで、ブルドルフとミュラーの立場が実際には極めて近いことを示しつつ、その微細な違いを明らかにすることで、「テクスト主体」の概念の輪郭を際立たせる。最後に、「テクスト主体」を作品読解にどう役立てられるかについて、ヘルダーリンの詩「アキレウス」(1799)を例にして考察する。