多くの方々のご来場をこころよりお待ちしております。
日時:2018年9月22日(土)13時30分〜
場所:早稲田大学戸山キャンパス 第10会議室(33号館16階)
■発表プログラム
第1部
13:30-14:15 戸嶋 匠(早大大学院文研修士課程)
自己同一化でも父親殺しでもなく
——トーマス・マン『ヴァイマールのロッテ』におけるイロニー—--
マルティン・ヴァルザーは文学論『自己意識とイロニー』(1981)で『ヴァイマールのロッテ』(1939)を取り上げトーマス・マンのイロニーの特質を批判的に論じている。作中人物リーマーがゲーテ論という形を取ったイロニー論を展開する箇所を引いて、マンは「イローニッシュな文学でも文体でもなく、主題としてのイロニー」をしか提示できていないというのだ。
マンのイロニーが価値自由を標榜する遊戯であり、その点では政治的な態度表明の回避につながるというヴァルザーの批判に一定の妥当性を認めた上で、本発表では、イロニー論を展開するリーマーが同時にゲーテに対してイロニーを実践しているようにも読めることを出発点に置きたい。登場人物の発言が作者の提示したい真理ではなく、各人の心理状況に依存したものであることが「小説的」要素であるとすれば、ゲーテに対するリーマーの複合感情が反映されたイロニーは、ヴァルザーの主張するのとは違って、「小説的」イロニーに他ならない。
ゲーテを語るマン自身も「影響の不安」のうちに立つ一人の「遅れてきた作家」として振る舞いつづけた。この文脈で見ると、イロニーとは、「息子」マンにとって「父」ゲーテからの借り物であると同時に、このあまりに巨大な先行作家と対峙するのに不可欠のレトリックでもある。イロニーの実践は「息子」にとって「自己同一化」でも「父親殺し」でもない第三の戦略となっているのだ。本発表ではゲーテ講演のレトリックを参照しつつ、リーマーの局限されたパースペクティヴと、作中でゲーテの引力圏から唯一離れて立つロッテの俯瞰的なパースペクティヴの機能の対比によってマンのイロニーの文学的・心理的意義を考察することを試みる。
14:15-15:00 田中潤(早大大学院文研博士後期課程)
レンツの喜劇・悲劇観に見られるルソーの「自然人」の受容
「私たちドイツの喜劇の書き手は同時に喜劇的に且つ悲劇的に書かねばならない」と劇作家レンツは言う。彼の独創的で奇抜な「喜劇・悲劇」観は、当時のドイツの文壇で論議を巻き起こした。今なお新しく発表される研究を鑑みるに、彼の喜劇・悲劇を巡る議論に終止符は打たれていない。発表では、こうした彼の「喜劇・悲劇」観にルソーの「自然人」の受容が見られることを論ずる。その上で、レンツの喜劇観が実際の喜劇作品にどのように実践されているかを『軍人たち』(1776)を例にとり、ルソー受容を考慮しつつ分析を試みる。その中でレンツの喜劇観における「真面目さ」概念に関して、この語を観衆の「教化」という啓蒙的な文脈で捉えたNeuhuber(2003)の研究を参照する。
レンツは喜劇『新メノーツァ』(1774)を発表するも、周囲の反応は冷ややかであった。ヴィーラントは「ドイツのメルクール」で『新メノーツァ』を喜劇というよりも混合劇であると述べ、痛烈に批判する。レンツはこれに対抗し『新メノーツァ自己批評』を世に送り出した。そこでレンツは喜劇作家が相手にする民衆を「文化と粗野さ」、「礼儀正しさと野性さ」の混合物であると言及する。こうした語の用い方に、ルソーによる「自然人」の枠組みをレンツが受容している可能性が見出される。従って、『新メノーツァ自己批評』後に発表された喜劇『軍人たち』に着目し、ルソーの影響がみられる喜劇論がどのように作品に実践されているかを検討する
第2部
16:00-17:00 荒又雄介(大東文化大学准教授)
道の描く奇妙な図柄
ホーフマンスタールは自作の劇に、書き下ろしの文章を添えることがある。こうした文章は当該の劇との関連から眺められるのが常であろうし、それで問題ないことが多い。しかし『美しい日の思い出』と題される有名な一文は、事情が少々複雑である。戯曲『山師と歌姫』(1898年成立)の出版に際し、この散文作品が書かれたのは1907年。同じ頃、喜劇『フロリンド』に取り組んでいた作家は、この散文の中に旧作ばかりでなく、目下執筆中の喜劇にまつわるモティーフも織り込んだのである。かつてはもっぱら旧作と関連付けられていた『美しい日の思い出』は、最近では『フロリンド』を背景に読まれることが多くなった。
本発表では、帰属の問題には拘泥せずに、むしろ性格の異なる二つの舞台作品が、作家の意識の中で多層的に通底している様を、散文作品の表現から読み取っていく。『美しい日の思い出』は、一見するところ舞台作品とは切り離されて自立している。具体的な要素が刈り込まれたり、他と差し替えられたりして、独立した物語に仕立てられているからである。しかし、並行して書かれた喜劇の資料を参照しつつ、その生成の相に目を凝らすとき、この散文作品はそれだけ取り出して眺めたときとは異なる様相を呈してくる。作中に現れる、空間的移動の痕跡を図形に見立てた比喩表現に注目しながら論じたい。
第3部 特別講演
17:00-18:00 Eberhard Scheiffele(早大名誉教授)
Versuche zur Erfindung einer alternativen Welt
in Christoph Ransmayrs Erzählwerk
Atlas eines ängstlichen Mannes