皆様のご来場をこころよりお待ちしております。
開催日時:2015年9月26日(土)12時~
開催場所:早稲田大学戸山キャンパス第11会議室(33号館6階)
プログラム
第1部 12:00-14:30
1. 鳥山明日香(早大院生)
ヘルター・ミュラー『狙われたキツネ』における「事物」の浸食
ヘルター・ミュラーの『狙われたキツネ』(1992)は、秘密警察からの監視や干渉をうける主人公と、秘密警察の男と恋仲になる親友を軸にルーマニア独裁政権末期の状況を描いており、少数民族としてルーマニアに生まれ、自らも監視に晒された作家本人の経験が投影された物語である。しかしミュラーはこうした政治的な性格をもった作品の執筆において写実的な描写を放棄し、自身の詩作品と同様にコラージュを取り入れた表現を用いている。テクスト内に頻繁に登場する人間、動物、植物そして服飾品などの事物を繋ぎ合わせた比喩表現や慣用表現によって、それぞれの間にあるはずの境界は曖昧になり、事物は時に人間を凌駕する。なかでも監視というテーマが色濃い本作において、コラージュによって起こる視覚の変容はとりわけ重要な意味をもつ。そこで本発表では、身体的イメージと視覚的に結びつく事物に注目しながら、監視下という緊張状態における不安と恐怖がコラージュ表現によって顕現される様を分析する。
2. 舟本正太郎(早大院生)
過去の体験を語る際の時制
ドイツ語で過去に起こった事態について述べる際には、主に過去形と現在完了形が使用される。過去形と現在完了形の違いに関しては「現在との関連性(Gegenwartsbezug)」や「完結性(Abgeschlossenheit)」という観点から説明されることも多いが、実際の発話においては純粋に時間的な要素のみを基準として使い分けられているとは必ずしも言えないだろう。本発表ではドイツ語のネイティヴスピーカーによる「過去に体験した出来事」をテーマとした発話を分析対象とし、先行文献との比較も行いながら、どのような要素が時制の使い分けに影響を与えているかについて音韻、形態、統語、意味といった様々な側面から考察したい。
3. 林敬太(早大院生)
謝肉祭の研究史
ドイツ語圏の謝肉祭に関する研究は,その起源を通時的に解明し,元来の姿を追究するものが主流であった。今日でも最も流布していると言える「ゲルマン民族起源説」は1920年代にH.ナウマン,H.E.ブッセらによって提唱されたが,具体的な物証を欠いていた。この起源説は第二次大戦後に再検証されることとなり,現在では,特に80年代以降にD.R.モーザーらによって提唱された「キリスト教起源説」と,イギリスのE.ホブズボウムらの影響を受けた「創られた伝統説」が学説としては主流になっている。その一方で,60年代にはH.バウジンガーによって謝肉祭に対する共時的な観察の必要性が主張されていた。また最近では研究者が謝肉祭の装束等に関して具体的な時代考証を行うことにより,謝肉祭の主催者たちのアイデンティティ意識に寄与するという傾向も見られる。上記のようなドイツ語圏における謝肉祭の研究史を,日本における研究状況も参照しながら検討してみたい。
総会 14:30-15:30
第2部 15:30-18:30
4. 鈴木芳子
カール・アインシュタイン『二十世紀の芸術』をめぐる一考察
作家・美術批評家カール・アインシュタイン(1885-1940)は、芸術を世界へ向かう能動的基点としてとらえ、彼の美学・芸術論の中核となる論文『総体性』(1914)において、芸術が視覚表象を規定し、芸術家は公衆の視覚表象に決定的影響を与えるとし、芸術が人々の世界観を変化させるのだというパラダイム転換を打ち出した。また時代・社会の現実と向かい合う芸術家の心性に注目し、テクノロジーとスピードの時代にあって、人間が意識的・無意識的に振り払ってきた記憶や太古の歴史は無意識の層において生長し、芸術家の創作活動において決定的な営みをすると考えた。本発表では、世界変革のひとつの可能性としての視覚、「批判的知性を備えた視覚」を主軸に、『二十世紀の芸術』(1926)における彼の政治・社会とアヴァンギャルド芸術を結びつける試み、ひいては芸術家の社会的使命について考察したい。
5. 荒井泰(早稲田大学文学部)
いつかくる忌明けのときまで、くだけた知を拾い集めて
ーーH.J.ジーバーベルク『ヒトラー、ドイツ生まれの映画』における物語叙述の構造ーー
7時間半に及ぶ上映時間、ほぼ全編に渡る役者たちのモノローグ、ヒトラーのパロディ化、奇抜な視覚的コラージュによる低予算の舞台演出。こういう特徴から『ヒトラー、ドイツ生まれの映画』(1977年)を「アヴァンギャルド映画」、見方によってはB級テイストの「カルト映画」にカテゴライズしたくなるのはわかる。だけれど、逆に、ほんとうに風変わりなのは、反物語的で異様な作風にもかかわらず、この映画にはある「物語」が潜んでいることではないか。ストーリーを作るいわゆる映画構造がないのにどうやって?この発表では、認知主義的映画理論の発展におおきく寄与したエドワード・ブラニガンの著作『物語の理解と映画』(1992年)とメディア理論家レフ・マノヴィッチの主著『ニューメディアの言語』(2001年)の助けを借りながら、『ヒトラー映画』の物語叙述の構造について考えてみる。と同時に、その特殊な映画スタイルが表現内容とどのような関わり合いがあるのかを解釈しようとおもう。
6. Leopold Schlöndorff
Aus dem Hinterwald jenseits der Geschichte. Handkes „Versuche“ als Selbstbestimmung eines Schreibenden.
Peter Handke hat in den Jahren 1989 bis 1991, bzw. von 2012 bis 2013, eine fünfbändige Essayreihe verfasst. Die teils frappierende Abwesenheit gängiger Genre-Konventionen vermag bisweilen jedoch zu irritieren: „Was für ein seltsames, was für ein sprödes Buch ist das[...]?“, fragt etwa Hellmuth Karasek bei der Lektüre des Versuchs über die Jukebox. (Der Spiegel, 35/1990) Und im Unterschied zu seinen Serbien-Texten tritt Handke hier auch dezidiert nicht „in den Zeugenstand[der Geschichte]“,wie es der Handke-Biograph Malte Herwig treffend zum Ausdruck bringt. (Herwig, 2010) Vielmehr schreibe er (Handke) „aus dem Hinterwald der Geschichte“, resümiert der Autor kokett in einem Brief an seinen Verleger Siegfried Unseld. (Handke/Unseld, 2012) Von besonderer Brisanz für das Gesamtwerk Handkes erscheinen jedoch die in den Essays enthaltenen Reflexionen über das Schreiben, weshalb die fünf Versucheprimär in Hinblick auf deren Aussagen zur Praxis des Schreibens (bzw. zur Figur des Schreibenden) untersucht werden sollen.